翠子
2018年 夏
この世に生まれた次の年から毎年、夏は川に行っている。
泳いだり流されたり、飛び込んだり。
川が山影で濃緑になるまで過ごすこともある。
昨年からこの川での過ごし方に「魚を捕ったり」が加わった。
鮎ではない。
あれはお金がかかる。
潜って小さな魚を捕るのである。
その小さな魚を餌にして鰻を捕る、簡単な仕掛けも覚えた。
今年は一匹だけ掛かった。
大人最高、水の国最高と
隙あらば川に行けるよう、
車には水着にバケツ、
エビ玉という小さな網などを常備している。
この夏は、大暑を待たずしてすでに猛暑の日々が続いていた。
蝉たちも参っていたのか元気がなかったように思う。
毎朝煌々と光っている合歓の木たちも、
もう無理ですといわんばかりに
くったりと早めに花を落とした。
それでも逞しく生きている。
夏だ。
炎天下で作業をした帰り道、川に寄り少しぼんやりとした。
夏休みに入った子供のいる家族連れたちが帰ろうとしている中、
一向に川から上がろうとしない外国人の団体がいる。
川での過ごし方にもお国柄というものがあるのだろうか。
もはや川にさえ見えない。
どこの国なのかわからない言語でしゃべり続けていた。
子供の頃、永遠に続くに違いない、続けばいいのにと思っていた長い夏休み。
『蜂の巣の子供たち』に出てくる子供たちには夏休みがない。
映画の舞台は戦後。
子供たちは学校に行きたくても行けない戦災孤児なのである。
冒頭、映画に出てくる子供たちに心当たりがないかを問う字幕がバンと出て、動揺する。
蜂の巣蜂の子ブンブンブン
朝から晩まで花畑
花から花へお使いだ
ブンブン ブンブン ブンブンブン
『蜂の巣の子供たち』は本当に戦災孤児なのだ。
物語は子供たちと、一人の復員兵との出会いから始まる。
みかへりの塔という感化院のようなところから戦争に行った復員兵。
おじきに闇で使われ、「手荒いおまわり」から逃げ回っている子供たち。
そのおじきは片脚がない。
出した電報が戻ってきたおねえちゃん。
みんな身寄りがない。
今夜眠る場所さえわからない。
それでもその瞬間を精一杯生きる子供たちは、明るい。
この映画に出てくる子供たちは、そのまんまの自分でのびのびとしている。
そのまんまでいい、そのまんまがいい。
一人ひとりのそのまんまをそのまんま受け止め、
面白がってくれる大人がこうして居る。
また面白いのだ、子供たちの言うことが。
ぎこちなさ一杯、懸命にこまっしゃくれたことを言うもんだから、
余計に面白くてたまらない。
子供たちは「ずらかる」のも大得意。
私は何度も笑い、反芻した。
ずらかるけれど、泣き言ひとつとて言わない子供たち。
泣き虫で甘えん坊でいてもよいのは身体の小さいよしぼうだけ。
そういうことはなんとなく決まっている。
海が見える。
突然、よしぼうが走り出した。
海に向かってひたすらに。真っ直ぐに。
小さいよしぼうがどんどん小さくなる。
けれど、画面いっぱい全部がよしぼうなのだ。
海は悲しいくらいに広く果てしない。
子供たちは、復員兵との旅の中で汗水流して働く生き方を知る。
一生懸命働いた後の芋は美味しいし、
胸を張って「働いている」と言える。
いつの時代も子供という生き物は利己的でずる賢いものだ。
けれど、物事の真ん中のところをちゃんとわかっていて思いやりもある。
どこを切り取っても、そんな子供の全部が描かれている。
「海が見たい」と言うよしぼう。
嘘が一番いけないと復員兵に叱られた子がよしぼうを負ぶって山を登る。
山は凄まじく険しい。
ああもう、こういうことをするのも子供なのだ。
ああもう、見てられない。
子供たちが全身で泣く。
私もこらえきれず一緒になってわんわんと泣いた。
わんわんと泣きながらも、また子供の言うことにふふふと笑った。
小さなよしぼうは10歳だった。
海はずっと遠くに見えた。
翌朝、
山に向かって、よしぼう、と言ってみた。
よしぼう、昨夜どこで眠ったん。