Rules 

・2019年に観た映画のうち「最も印象に残っている映画」を1本選び、紹介してください。

・⾯⽩かった映画、良かった映画だけではなく「意味不明だったけれど、気がつけばあの映画のことばかり考えていた」「不愉快だったけれど、不思議と引っかかるものがあった」、 もしかすると、そんな映画も「印象に残っている映画」かもしれません。

・2019年に観た映画であれば、新作/旧作を問いません。

・映画館に限らずDVD、Netflix等の配信、⾶⾏機の中やテレビ放映で観た映画も対象です。

・映画タイトル、観た場所、そして2019年に撮った映画にまつわる写真を1枚添付し、説明してください。

Writers

  小栗誠史(古書店勤務) aya(グラフィックデザイナー) 古川博規(服飾デザイナー)
翠子(翠文庫) 辻本マリコ(Cinema Studio 28 Tokyo主宰) 

小栗誠史

古書店勤務

Mr. Oguri’s Golden Penguin goes to…

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
(2017)

監督:フレデリック・ワイズマン
観た場所:アップリンク吉祥寺/東京/日本

まず驚かされたのは、ニューヨークでは3人に1人がインターネットにアクセスできない環境にあるということだった。つまりパソコンを購入することのできない層がそれだけ存在しているということでもある。そうした状況に手を差し伸べているのが行政ではなく、ニューヨーク公共図書館(以下NYPL)であるということが興味深い。

カメラは文字通りワイズマンの目となって、その興味の向くまま奥へ奥へと進んでいく。

ときに本はアナログ的なものの象徴として祀りあげられる。しかし、NYPLはそもそも「アナログ vs デジタル」という二元論的な見方をしていない。如何にして情報にアクセスするのかということに心血を注いでいる。だから書籍のデジタル化にも熱心だ。

一方で、有限な予算を最大化するために、やはりベストセラーと電子書籍の問題にも頭を悩ませている。議論によって導き出されたのは「売れた本は多少なりともお金を出せば手に入れる方法はある。しかし、10年後に必要とする誰かひとりのためにコレクションするべきだ」ということ。その姿勢は明確で清々しい。

オランダ人建築家の「図書館は本の置き場ではありません、人なのです」という言葉には図書館の本質について考えさせられた。そうであるなら、図書館は不要であるという考え方はナンセンスなものにすぎない。

最後にその未来を祝福するかのように流れるグールドのゴルトベルク変奏曲は奇跡のように美しかった。

内容充実のプログラム

aya

グラフィックデザイナー

aya’s Golden Penguin goes to…

荒野にて
(2017)

監督:アンドリュー・ヘイ
観た場所:ヒューマントラストシネマ渋谷/東京/日本

映画の冒頭、こっそりと家を抜けるチャーリーは、家出を試みたのかと思った。静かに家を出たチャーリーは朝の道を走り、家に戻る。チャーリーには、いい加減そうだけれど気の合うお父さんがいる。

その後、チャーリーはその家にいられなくなる。同年代の友達は映画に出てこず、15歳のチャーリーには話し相手がいない。

現実の私たちも、たくさんの人と会話を交わしているようでいて、本当の話をする相手、というのは実はものすごく少ないのかもしれない。自分が本当は何を人に聞いて欲しいのか、言葉になるまでには時間がかかるものなのかもしれないと思う。

チャーリーが、一緒に歩いているピートという馬に自分の本心を語り出すまでには、長い時間がかかる。時間をかけて、それでも言葉少なに、さみしさを語り出すチャーリー。どこまでも続く荒野の中で、今チャーリーが持っていない色々なものの話をする。

映画の中で、チャーリーには安心できる家がなく、世界はどこまでも広い荒野だ。

私はもう大人になったけれど、世界は荒涼としていて自分がとても小さく、たくさんあるドアのどれも自分には開かれない、という心象風景が消えない。

アンドリュー・ヘイ監督の撮影はとても美しく、映画では寂しさが印象的だけれどつらい映画ではないと思う。

初見時、後半泣き通しになってしまって、二回目を見たら最初から泣いてしまった。

日本では同年公開になった同監督の『ウィークエンド』も素晴らしかったです。

コミコンでジュード・ロウに会うためにイラストを起こし、コピーを制作し、オリジナルTシャツを作りました。ドラマ『The Young Pope』と同じポーズをとってくれて、優しかったです…。

古川博規

服飾デザイナー

Mr. Furukawa’s Golden Penguin goes to…

主戦場
(2018)

監督:ミキ・デザキ
観た場所:シアターキノ/札幌/日本

この映画の「さわり」だけ話してみたい。と言うときの、この「さわり」の意味は、本来の意味とはかなり違った意味で慣用されているのを見かけるが、このレベルとは比較できないほど危険に、さまざまな言葉が恣意的に変形されてきている。「ファクト」が文字通りの〈ファクト〉たり得ない時代である。それを助けているのが〈検閲〉で、「公益性」の為だと言いながらその実は、ラベルが〈国家〉というだけの〈私益〉ではないか。〈検閲〉以上にタチの悪い〈忖度〉の流行も続いている2019年に〈鑑賞全体の体験〉として最も強く記憶に残った点において、文句なしにミキ・デザキ監督作品『主戦場』を選出する。画像の新聞記事で、白石和彌監督が憲法第十二条を引いているが、「国民の不断の努力」を尽くせるだけの正しい前提に立ちたいと考える。自分にとって好ましく正しいと信じたい〈ファクト〉であっても、自分にとっては都合が悪く蓋をして逃げ出したいと感じられるような〈ファクト〉であっても、力の限り同等に直視して適正に対処できたなら、これ以上のことはないだろう。人間という存在にとっては非常に困難な永遠の課題なのだろうが、それができて初めて、本当の〈主戦場〉に立つことができ、「国民の不断の努力」という構えを取ることが可能になるのではないだろうか。ここに想いを馳せさせることが、この作品の何よりの「さわり」であり、得難い価値であると私は考える。

2020年1月17日 新聞文化面の切り抜き。三人の映画監督(森達也さん/白石和彌さん/深田晃司さん)による、『主戦場』の一時上映中止も含む、2019年における一連の〈表現の自由〉まわりの問題について。

翠子

翠文庫

Midoriko’s Golden Penguin goes to…

ガス人間第一号
(1960)

監督:本多猪四郎
観た場所:自宅にて、レンタルDVD/日本

以前にも申しましたが、秋は毎週のように祭りがあるもんで、忙しいんですわ。

それに加え、2019年の雨風は休日がお好きとみた。自然様には抗えません。まあ見事に祭りが延びる、被る、詰まる、挙げ句、とっきにはパー。

10月の初め、おかげでぽかんと空いた日だったでしょうか、今こうして目を閉じるとですね、浮かぶわけですよ。雨で白く煙った山をバックに、光る青の靄に覆われた頭がです。聞こえてくるのですよ、小気味好い鼓と三味線の音が。そして、どういうわけかゾクゾクしてくるのです。

頭ん中がごった返していましたから、奇妙キテレツな映画でも観たかったんでしょう。けれど人間というものについて随分と考えさせられましたし、最後は哀切極まるものがありました。

「東宝が全世界に誇る最高の特殊撮影技術を使って皆様に送る空想スリラー映画の決定版」、実に見事でした。いやあ、熱い。時間をかけ頭を寄せ合い人の手で、思いつく限りのありとあらゆるものを駆使して創り上げられたガス人間。予告編も熱い。積極果敢に攻めてくる。これです。是非ともこの姿勢でいってほしい新時代。

昭和の賑わう映画館で目を輝かせて観たかった。やはり生きる時代を間違えたかしらん。

かつて山の子どもたちが通っていた今は廃校となった小学校で、『津軽のカマリ』という映画の上映会があったので行ってきました。ストーブに当たりながらそれでも寒い寒いと丸まって聴いた津軽三味線、上映後には監督のトーク。山奥のひとつの灯りの下に、こうして集って映画を観られるなんて、豊かです。

辻本マリコ

Cinema Studio 28 Tokyo主宰

Mariko’s Golden Penguin goes to…

春江水暖
(2019)

監督:グー・シャオガン
観た場所:有楽町朝日ホール/東京/日本

私の2019年は変化の年で、他者の物語より、自分に集中した。
映画の時間からも情報からも遠ざかった。
長らく大切にしていた映画の記憶も、手放してみたくなった。
手垢がべったり付着し干からびた「好き」を、後生大事にしてしまいそうで、怖くなった。
 
それでも秋には季節行事のようにチケットを買い、映画祭に足を運んだ。
直感だけで『春江水暖』を選び、何も調べずに観た。
 
富陽を舞台に、祝宴に始まり葬儀で終わる大家族の大河ドラマで
「富春山居図」からインスピレーションを受け、
漢詩から引用した名前がつけられたこの映画では
絵巻物を紐解くようにするする流れる長回しが多用される。
 
端正な映像に蠢くのは
時代に翻弄され金の心配をする普通の人々だけれど、
現代中国社会は、と声高に主張することもなく
川の流れのようにさらさらと時間は横に縦に流れ、
人間も風景の瑣末な構成要素に過ぎない、その絶望と安心と
愚直な日々の営みこそ大事と思い直す連続とが淡々と綴られる。
 
登壇した監督は31歳の若さで、これが長編第一作とのこと。
ほぼ親戚知人というキャストたちが、次第に味のある俳優に見えてくる魔法。
古典を現代に取り入れる手法も作為の匂いがせず、
ただ自分に集中して撮ったらこうなった、という素直な映画のように思えた。
 
見知らぬ新しい人が新しい「好き」をもたらしてくれて
自分に集中せよ、直感こそすべて。
私の2019年の1本は、そんな映画だった。
 

配線を工夫して以前から自宅ではプロジェクターで映画やテレビを観ています。前の部屋では80インチのスクリーンを設置していたけれど、新居の白い広い壁に投影してみるとスクリーンサイズはぐんと拡大して140インチ相当に。スピーカーや巨大なソファを配置し快適すぎる視聴環境が整ってしまい、自分の中で「これは映画館で」「これは配信で」の線引き基準が生まれつつある2019年でした。