翠子

2018年 秋

山の上は、稲刈りに祭りにと秋が一年で一番忙しい。
しかも祭りは2度もあり、人で賑わうのも秋である。

都会にいた頃、祭りは外から見物するものだった。
これが田舎で暮らし始めた途端、
やれ神輿を担いでくれだの、やれ踊ってくれだの、
やれ尼将軍になってくれだのとお呼びがかかり、
見物人から祭りの「中」の人となった。

この祭りというものに、和歌山では必ずといっていいほど餅まきがついてくる。
そしてその餅を準備するのが、祭りの「中」の人たちである。

祭りの前日は、山の集落の皆に招集がかかる。
まず力仕事のできる男衆が集まり餅米を蒸し始める。
それから餅を丸める者、餅を袋詰めする者がバラバラと集まり、
昼前には全てが終わる。
昼ご飯には少し早い時間に、皆でバラ寿司を食べるのもお決まりとなっている。

新嘗祭の準備で、餅を丸めながらケイコさんとお喋りをした。
ケイコさんは、私たち新参者にとっては盆踊りの師匠。
腰が曲がって久しいとはとても思えない、軽く、切れのある踊りをする。
滅多に会わないが、上品で、どこか文学的な香りがするとずっと思っていた。

趣味を聞くと、手芸や、映画鑑賞と言うのでここぞとばかりに喰いついて聞く。
映画は「ものすご好き」で昔、山の下にあった映画館には必ず行っていたし、
テレビでやっている映画もよく観ていたのだそう。
俳優や監督の名前も私よりずっとたくさん知っていた。
そして、西部劇が好きだと言った。

そういえば、西部劇を観たことがない。

西部劇を観ようと決めたものの、何から観たらよいのかわからない。
タイトルからして荒野で繰り広げられる男の戦いを忙しい秋に観ようとは思えず、
なんとなくシュッとしているものを選んで数本観た。

『ジャイアンツ』は、日本版の手描きポスターを見て、
ケイコさんも観たに違いない、
日曜洋画劇場でもやったに違いないと思い選んだもの。
ガンマンも、アパッチ族も出てこなかったから
「西部劇」とは言わないのかもしれないけど。

公開当時に観た人たちは、映画で描かれている時代の遠い異国の地のことを、
どれくらいわかって観たのだろう。

限りなく広がる荒野、
緑豊かな丘を走り抜ける馬、
馬と競争するかのように黒く分厚い煙を吐き出し走る蒸気機関車。
全てが壮大で、豊かさに溢れている。

この蒸気機関車に乗り、テキサスから種馬の買い付けに来たビック。
テキサスに桁違いのとんでもなく広い土地を持つ牧場主、
ベネディクト家の2世である。

艶艶とした馬に乗り、颯爽と現れたすみれ色の瞳の美女レズリー。
異国の女というものはなんてカッコよいのだろう。
自分とはあまりにも違いすぎる。

私はいつの間にか、ひ孫もいる80も過ぎたおばあさんになっていた。

物語は、馬の牧場主の娘レズリーが、なんとも早い展開でビックと結婚し、
テキサスに行くところから始まる。
テキサスの朝食は英国調ではないし、緑も見えなければ、柔らかい風も吹かない。
だからといって戸惑うことなく、ビックの妻に、そして「テキサスの女」になる。

レズリーはいいところのお嬢さんなのに、ちっとも気取ったところがない。
使用人もメキシコ人も、馬も、たった一つの存在として向き合い、
すうっと心の中に入る。
「戦いの風」と呼ばれる暴れ馬とだって、顔をすりすりし合える。

誰に対しても物怖じせず自分の考えを言い、凛としていて、
いつだって「レズリー」である。
それは、3人の子の母になっても変わらない。

私も、こんな風に生きてみたかった。

月日はどんどん過ぎ、時代が大きく変わっていく。

レズリーに密かに想いを寄せる元使用人ジェットの変わり様、
富を得るほどに濃くなる孤独はあまりにも切ない。

感謝祭の食卓に上がった七面鳥が、
可愛がっていたペドロだと確信した瞬間の子どもたちの泣きっぷり。
思わずファイティングポーズをとってしまった殴り合いの喧嘩。
誰もいなくなった祝賀会場でのジェットの告白。
最後のシーンの夫婦の会話。

ケイコさんの口からまず飛び出すのは、どのシーンだろう。
音楽もとてもよかったから、音楽のことかもしれない。

私は、なんでだろう、
ジェットがレズリーに紅茶を淹れるシーンに映る窓辺が浮かんでくる。

なんの花だったかまではわからないのだけど、
一輪挿しが並べられていてね、

ね、なんでだろうね。

文と写真

翠子

植物学の日生まれ
和歌山県田辺市在住

秋の映画

『ジャイアンツ』

ジョージ・スティーヴンス監督
1956年/アメリカ