5 Best movies 2016 / Part4
Best movies 2016、4本目はジョニー・トー監督「スリ」、2008年、香港映画。
記憶はいつだって身勝手で、良かったことだけを保存する傾向のある人は、過去を砂糖でくるみ、包んだ手を開くとベタつきが残る。ノスタルジーの取扱いは難しい。「スリ」は、取扱いに成功した稀な1本。
返還後、想像以上に香港の街の変化は早く、幼少の頃から親しんだ懐かしい建物も徐々に取り壊されゆく中、好きだった香港の街を記録するために、「スリ」を撮ったと特典インタビューで監督は語っていた。
籠にとらわれた鳥を逃す物語。大陸からやってきた、マフィアのボスの情婦。ハイヒールであちこちを行き来しながら、4人のスリ集団をそそのかし、彼女の解放をめぐって、雨の広東道でスリとマフィアが対峙する。
身体性が奪われつつあるのは犯罪の世界でも同じようで、相手の体と密着して犯行に及ぶ、スリという行為自体も、やがて旧時代のものになっていく。大陸の発展が急速に進む中、かつて大陸から自由な香港に夢を抱いてやってきた人々の存在も、過去のものになる。籠にとらわれた鳥こと美しい情婦だけが、広東語ではなく普通話を話していた。大陸からやってきたのだ。
ここまでだとジョニー・トーお得意のクールな男の世界だけれど、特筆すべき点は、ほとんどミュージカルのように音楽に彩られていること。セリフが歌、というわけではないけれど、「スリ」はジョニー・トーが大好きだという「シェルブールの雨傘」へのオマージュでもある。なんと…!ジョニー・トー、いかつい風貌のくせして、ロマンティック…!
冒頭から、年季の入ったアパートの部屋にいるサイモン・ヤムが歌って踊りはしないものの、ステップを踏むようなリズムで物語が始まる。全篇の音楽は、フランスの作曲家による東洋趣味、西洋流解釈の東洋といった手触りで、エキゾチックな香港の街によく似合う。
「シェルブールの雨傘」オマージュだから、クライマックスのスリ合戦も雨の中。色とりどりではないけれど、男たちの黒い傘に落ちては跳ねる、超スローモーションでとらえられた雨粒の動きのエレガントなこと…!つるんと無機質に変化していく街で、「義理人情」とか「矜持」とか、簡単に使うのももはや気恥ずかしい、やがて死語になりそうな言葉が似合う場面だった。
これだけ要素を盛り込むと、どうしても甘いノスタルジアに支配された映画になりそうなものを、そうならないのは87分とコンパクトで、省略が多用されているからか。少なくはない登場人物たちも、巧みな人物配置であっという間に説明してしまう名人技。思い入れ強く語りたいことがある時ほど削るべき、とルビッチとジョニー・トーが教えてくれる。潔く削った断面からのみ香る種類の詩情に溢れ、大切な写真をアルバムにしまうように、街へのラブレターを投函するように、こんな映画を香港に贈ることができるジョニー・トーが羨ましい。