アブラハム渓谷

 

土曜の映画、オリヴェイラ特集で「アブラハム渓谷」。3度めの鑑賞のはず。188分ってこんなに短い時間だっけ?と不思議なほど呆気なく過ぎた。2度めに観た時(感想はこちら)が、最も切実にこの物語を捉えたのではないか。1年ののち、もう私は「アブラハム渓谷」を切実には観ない女になっていた。

 

渓谷に棲む女の一生。女の一生ものを描く映画は多く、恐ろしいほど監督の女性観が滲み出て、不愉快になることも多いけれど、「アブラハム渓谷」はすんなり受け入れられる珍しい1本。オリヴェイラってどこかしら性を超越した視点を感じさせるからかな、と考えながら、手元にある書籍「マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画」を開いてみた。

 

「アブラハム渓谷」はフロベール「ボヴァリー夫人」を、作家アウグスティーナ・ベッサ=ルイースが翻案したものの映画化で、つまり「ボヴァリー夫人」の直接的な映画化ではなく、間にひとつ翻案のステップを挟んでいる。これについてオリヴェイラがコメントしているのを、発見したのでメモ。

 

「ボヴァリー夫人」というのは男性(フロベール)が女性について書いた本だ。それでボヴァリズムが生まれ、さらにそれを、さまざまな女性について書く女性作家、アウグスティーナが取り上げた。そして今度は私がアウグスティーナの翻案を扱うわけで、つまり私は、フロベールの視点から見た一女性、の視野を通して語る(諸)女性、について語る男、であることになる。これは私にとっては大きな利点だ。」

 

映画の中でもエマが「私はボヴァリーではないわ。私は私よ」というセリフがあった。少女時代のエマが「ボヴァリー夫人」を手に取り読むシーンも。小説の単純な映画化ではなく、映画が小説全体をすっぽり内包している。全篇を通じて男の声のナレーションで物語が進行し、映像には映らない登場人物たちの心理を解説したり、他の映画なら鬱陶しく思いそうなそんな演出がしっくりくるのは、小説を内包しているからだろうか。

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