物語る人々
銀座和光の最新ウィンドウ。色がどんどん変わって、赤になったり青になったり。ここで写真を撮るとガラスに反射した交差点界隈のビルや光が映り込むの、胸がキュッとする。
テーマは「情」。赤は女心、青は男心、だそうです。
https://www.wako.co.jp/display/
小栗さんが連載「One movie, One book」で取り上げていた千野帽子さんの著書「人はなぜ物語を求めるのか」。人はなぜ物語るのか?は、ぼんやり考え事する時のネタとして私の脳内によく登場するトピックなので興味深く読了。私は物語そのものより、「物語り方」とか「物語る角度」とか「物語を成立させるための構造」などに興味があるタイプだと思う。エモーショナルな性格ではないし、そもそも他者にすごく興味があるわけではないので、「感情移入して泣く」とか、そんな気分にまったくならないし、さっぱりよくわからないのに、これだけ物語に触れ続けているのは、そもそも物語って何…という方面に興味があるのかな、と。
以前、何かで読んだことに、人が朝起きて1日を終えるまでに目にしたものをすべて言葉にすると文庫本24冊分になる、という説があるらしく、なんという言葉の海!そんな中から何を拾って順序を組み立て言葉を選ぶか、という作業、例えば「日記を書く」という行為においても、さりげなく「物語ること」は成立している。さらに書く文字数には限りがあるので(毎日、文庫本24冊分を書く人はいない)、いかに総括して書く能力に優れていたとしても、零れ落ちる分量のほうが圧倒的に多く、SNSが発達して人の物語る頻度や道具が増え、同時に「よく知りもしないくせに」的諍いが絶えないのも、必然と感じる。
ここ数年、映画を観るうち、これはいったいどういう心理なのだろう?と、解せない部分も多いながら、その「物語りたい欲」や「物語る手法」に興味が湧いたのは、監督が自分自身に起きたことを、自分自身が演じ、映画に仕立て上げた映画を何本か観たこと。
例えば、ヴァレリー・ドンゼッリ「わたしたちの宣戦布告」。
http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/donzelli&elkaim/index.html
監督が恋に落ち、子供が生まれ、子供の病気を乗り越えるけれど、二人は別れてしまう、という一連の流れを、監督自身と元夫、つまりこの現実の当事者が演じる映画。
サラ・ポーリー「物語る私たち」は、兄弟の中で自分だけ父親に似ていない、と言われていたサラ・ポーリー自身が、華やかだった母親の人生を追ううち、出生の秘密に辿り着くドキュメンタリー。
監督自身ではないけれど、別の映画の企画のために演じてくれそうな女性に会ったら、彼女自身の恋のエピソードが強烈で、そちらをその女性主演で撮ることにした、というサフディ兄弟の「神様なんかくそくらえ」。
http://realsound.jp/movie/2015/12/post-631.html
こういった映画を生み出す心理って「再現することによって乗り越える」欲…ということなのかな?と考えると、映画をつくる、自分を演じる、など、数多の表現方法の中から、これなら自分にもできるかな?という方法を選択し、自分に起きた出来事を物語にして、過去のものにしていく、手の込んだタフさに圧倒されると同時に、偶然かもしれないけれど、たまたま興味を持ったこれらの映画が、女性監督、女優自身、女の物語であること、を、ぼんやり考え続けている。