15時17分、パリ行き

 

震災から7年目の3月11日は日曜日。タイトルにちなんで15時17分の上映が設けられた丸の内ピカデリーにて、クリント・イーストウッド「15時17分、パリ行き」を。

 

http://wwws.warnerbros.co.jp/1517toparis/

 

アメリカという国には、憧れたことも強い興味を持ったこともないけれど、イーストウッドの映画でアメリカのA面を、ワイズマンのドキュメンタリーでB面を追いかけているようにも思う。あの大国に対して、ずいぶん偏った視点だと思うけれど、個人の視点がまんべんなくフラットでフェアになることなんて、永遠にない。イーストウッドについては、どんなテーマであろうと映画に仕立てることができ、出来上がりの平均点がすこぶる高い、熟練の職人のような監督だと思っており、観終わると、はいはいアメリカすごい、アメリカ立派、アメリカえらい。と棒読みでアメリカを讃えたくなるような気分になるものも多いけれど(単に私がアメリカに強い興味がないだけで、イーストウッドは褒めておる)、ごく稀に、狂気ほとばしる不思議な映画を職人の完成度で仕立て上げることがあって、目が離せない。

 

「ヒアアフター」という映画は、日本ではちょうど震災の頃に上映され、冒頭に迫力ある津波のシーンがあるため上映中止になった。あの時期テレビで震災の映像を見続けたため、「ヒアアフター」を観ることが怖い、という人もいるのではないか。私は恐怖感が落ち着いた頃、ギンレイホールでひっそりかかったのを観に行き、ものすごく変な映画で興奮しました。あの世とこの世の境目にアクセスするようなスピリチュアルな物語。イーストウッドが監督していなければ、トンデモ映画になりそうなところを、イーストウッドだから最後まで観られる映画になっている。もしかしてイーストウッド、俺、なんでも映画にできるからさ?こういうの撮ってみても映画になるかな?って実験してみたんだよね。って気分で撮ったのではなかろうか、と深読みしたくなる異形の映画であった。

 

前置きが長くなったけれど、最新作「15時17分、パリ行き」は、実際に起こった列車内でのテロ事件を食い止めたアメリカ人の物語。これだけ読むと、はいはいアメリカすごい、アメリカ立派の系譜かと思うけれど、「実際に、テロを食い止めた若者3人が、映画で主人公を、つまり本人が本人を演じる」と知って、えええええ!と俄然観たくなった。私はこういう、その人がその人を演じる映画に興味があって、これまでそれに果敢にトライするのは女性が多い印象だったけれど、男性が!観る!と興奮しなががらいそいそと映画館へ向かった。

 

わー、これはとても不思議な映画。イーストウッドの中でもカルト映画になる可能性を秘めておる。まず映画の構成がとても不思議で、94分の映画のうち、70分はテロ以前の彼らの半生、テロに遭遇する直前のヨーロッパ旅行。15分ほどテロの再現シーン。ラスト9分は英雄になった彼らとエンドロール、という時間配分(計ったわけではないので体感時間)。テロ以前の70分を観ている時の自分の感覚がなかなか前代未聞で、何しろ彼らは本職の俳優ではなく、演技経験のない素人だから、運命の旅行に至るまでの生い立ち(母子家庭で育った、注意欠陥障害の疑いがあり、ミリタリーマニアで、いじめられっ子どうし仲良くなる)は物語仕立てで語られたとしても、旅行中の映像が、もう本当に、ホームビデオ?結婚式のビデオを延々と知り合いのリビングで鑑賞させられているような苦々しい逃げられなさ。イーストウッドが撮った豪華ホームビデオである!と言い聞かせても、自分はいったい何を観ているのだろう、映画館のスクリーンで?という気分に陥った。

 

けれど、テロの再現シーンを観終わると、どう考えても冗長に思えたbeforeテロの70分が、1秒たりとも無駄ではなかった…すべての伏線が回収された感…(呆然)…イーストウッド神!と、謎の高揚を味わう。そこで終わると綺麗なオチで、アメリカえらいえらい、と帰ることができるところを、ラストの英雄になった彼らとエンドロールパートが、一気にこの映画を不気味なものにしていた。

 

事件はアムステルダムからパリに向かう列車の中で起き、テロを食い止め乗客を救った彼らはアメリカに帰る前、フランスで讃えられる。登場するのが当時のオランド大統領。オランドそっくり!と思えば、あ、本物か。叙勲式の映像は、実際の式典を記録した映像を使っている。さっきまで再現ドラマとして演じられていたパートも、主人公3人は本人たちが演じているから、当たり前だけれど記録映像の中の人物と同一人物。つまりここで、ノンフィクションをフィクションとして再現する映像→ノンフィクション映像、と映像が切り替わる、と理解した瞬間の気持ち悪さはなんだか味わったことのない種類のものだった。

 

オランド大統領が「4名の勇気により…」と4名を讃えるスピーチをする。ん?4名?映画の中では、アメリカの幼馴染3人しか写っておらず、けれど実際にはもう1人、テロ食い止めに貢献した人物がおり、4人目のその人がいきなりここで画面に登場し、何も説明されない。誰やねん?とポカーンとし、帰宅して調べた。イーストウッドは4人の英雄をまんべんなく描くのではなく、3人の幼馴染にフォーカスした物語を仕立てるために、残り1人の存在をばっさり無きものにしたのだな。これぞ編集力!物語る私たち!この式典の場面は彼らを育てたママたちも参加していたように思うけれど、ママたちは本物のママが演じているのではなく女優が演じており、記録映像と女優の演じるフィクションが巧みな編集で滑らかに繋げられ何の違和感もない。途中、こんな女性いたっけ?と思った女性は、フランスに駐在するアメリカの大使の女性らしく、彼女は本物だったらしい。女優のように綺麗な人だったから、何がなんだか…(混乱)…もう…!全篇に渡って、これは本物、これは俳優、とわかりやすく色分けされた状態で観てみたいぐらい。

 

トータル94分を振り返ってみると、彼ら3人は生まれながらの英雄ではなく、まるで恵まれた境遇でもなく、学校ですらシングルマザーを冷遇し…というジリジリする痛みが、英雄になることで一気に昇華する。伏線は気持ちよく回収され、イーストウッドらしい映画だけれど、「本人が本人を演じる」という選択がこの映画を妙に謎めいたものにしている。これ、プロの俳優が演じていれば、何の面白みもなかったのでは。演技経験のない3人の男性陣がどんどんオーラを纏っていく過程、ひとりの人物なんて「軍隊に入るために、減量をした自分」を再現するために、一度太って痩せた?デニーロか!とツッコミたくなるぐらい見た目が変化し、素人とプロの境目ってどこにあるのだろうか。

 

混乱しているので文章がまとまらないけれど、3人だけではなく、テロの場面はその場に居合わせた人物が他にも本人役で多数出演して(テロリスト以外)、テロを再現している。銃で撃たれて重傷を負う男性の迫真の演技…さすがに俳優が演じてるのよね?と思えば、俳優ではなく撃たれた本人なのだそう。撃たれた夫を心配する妻も本物の妻だそう。えええ!こんな場面に遭遇したならばトラウマになって、再現ドラマなんて観たくもない、演じるなんてもってのほか、と思いそうなところを、彼らはそうじゃないんだな、こんな乗り越え方もあるのか。思いもよらぬ人間のタフさよ。

 

普通の人々がヒーローになり、そして「イーストウッドが自分の映画を撮ってくれる。あのイーストウッドが!」という点まで含め、彼らにとってのアメリカンドリームの実現だったのだろうか。イーストウッドを通じて知るアメリカは、やっぱりちょっと興味深い。この映画の変なところを延々と喋りたいから、周りの人たちには是非観てもらいたいものです。「ヒアアフター」とセットで!

 

イーストウッドと3人の映像。「映画で自分を演じられて、最高でした」

 

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