なみのこえ 気仙沼
酒井耕・濱口竜介監督による東北記録映画三部作、第2部は『なみのこえ』。
『なみのこえ』は2篇あり(新地町/気仙沼)、私が観たのは『なみのこえ 気仙沼』。2013年の映画で、震災の年に撮られた『なみのおと』に比べ、語る人々の表情が明るく、語る内容も震災体験だけではない、震災以前のその人の人生が透けて見えるものが多かった。
http://silentvoice.jp/naminokoe/
そのため夫婦、親子、兄弟、同僚…と、対話形式で撮られるこの不思議なドキュメンタリーの特徴が前作より際立って見え、濱口ファンとしては、なるほど、この経験をもって『ハッピーアワー』に繋がるんだな、と納得するものがあった。ドキュメンタリーに抵抗があったとしても、『ハッピーアワー』が好きだった人にお薦めしたい。プロでもない普通の人々が画面の中央を支配し、ハラハラしながら見守るうちに、なんだか神々しいオーラを纏いはじめ、目が離せなくなる『ハッピーアワー』的魔法は『なみのこえ 気仙沼』にもかかっていた。
冒頭は兄弟で喫茶店を経営するふたり。同じ街で生まれ育って、同じ職業に就く兄弟でも性格が違うという兄弟らしさ。喫茶店のイメージで語りを聞いていると、どうやら名物は自家製キムチ、ラーメンらしい。喫茶店とは…?名前は「喫茶マンボ」らしい。気仙沼に行くことがあれば、マンボでラーメン食べたい。喫茶マンボ、震災により元の場所で営業を続けられず、新たな場所で再出発したようで、常連さんは「またマンボの味が食べられるなんて」と当初は喜んでいたのが、徐々に「やっぱり元の、あのマンボじゃないとね」と記憶の中のマンボと照合をし始めたらしく、そう言われても…と困惑の表情の兄弟。人の欲望は勝手なものだなぁ、と思うと同時に、欲望の回復は希望そのものではないか。対話が撮られた場所、新・喫茶マンボなのかわからないけれど、対話の間、ずっと壁に貼られたメニュー「毛ガニチャーハン」が否応なしに目に入り、マンボに行くことがあったら、ラーメンと毛ガニチャーハンだな、と心に決めた。
震災時は出張で関西にいた呉服屋を営む女性と、気仙沼で被災した従業員の女性の対話は、あまり失わなかった人と、たくさん失った人の対話でもあった。ペットの話になると、ペットが亡くなった女性は涙を流した。震災後、泥だらけになった着物を持ち込み、洗って綺麗になるか相談したお客さんが多かったこと。綺麗になった着物を渡し、涙を流したお客さんを見て、着るものって、ただ着るだけのものじゃないのね、と改めて思ったとのこと。長らくのつきあいの女性ふたり、経営者と従業員という枠を超えて、ずけずけ遠慮なく言い合う、強くスリリングな対話で、「あなたのこと、嫌いだと思ったこともあるけれど…」なんて言葉がサラッと出てきてひやひやした。嫌いだったり、助け合ったりして何十年、なんだろうなぁ。
50代の夫婦の対話も後半は、もはや震災の話ではなかった。奥さんは気仙沼の水産加工会社の娘として育ち、旦那さんが婿入りして現在は社長となった。社長の娘として育ち、おばあちゃんやお母さんに、あなたが結婚するならこんな相手がいいわよ、と理想の旦那さん像を教え込まれ、素直だから信じていたけれど、実際に結婚したのは真逆の人だった。最初は奥さんの中にも、うちの会社の社長はこうでなければならないという考えが強くあって、反発もしたけれど、今となっては、旦那さんの考えを100%信じられる、と断言していた。これらの対話は、小津映画のように正面から顔を交互に捉える切り返しのショットの連続で成り立っており、真顔で旦那さんに敬意を表明し、縁とは不思議なものよ、と話す奥さんと、照れる旦那さんが交互に映される。
このあたりから、私は何を観ているのだろう、と思い始めた。震災のドキュメンタリーで、語る人たちの多くは気仙沼で被災をした方だけれど、いったいこれは何なんだろう。
『なみのこえ』とは違い『なみのおと 気仙沼』では、対話の相手としての監督はほとんど登場しなかった。対話するふたりをうまく見つけられたのかもしれないし、震災から少し時間が経ち、震災体験を語ってもいい、と思う人が増えたのかもしれない。現実の前に淡々とした透明なカメラを置くワイズマンの映画のように、気仙沼の日常の前にカメラが置かれただけのようにも思えるけれど、ドキュメンタリーを撮るという目的と、場が整えられて初めて口から出てくる対話のようにも思える。第三者にもろもろ整えられ、さぁあなたのことを教えてください、と言われないと、関係が近しくても、普段こんな対話ってないのでは…?と思うと、フィクションのしらじらしさが混じったドキュメンタリーのように思える。
最後に登場した若い夫婦。この対話を最後に配置したのは、編集でオチをつけるワイズマンみたい。口下手な奥さんは震災の日に帰宅すると、夫の心配をする前に、誘われるままに友達の家に行っちゃうようなマイペースそうな人。愛を確かめるように「俺のことは心配したのか?」と問う夫。ニヤニヤするだけで何も言葉を発しない妻。微笑ましいふたりも、震災により結婚式が挙げられなくなり、土地価格の高騰でマイホーム計画も先延ばしになったらしい。ほとんど中身のないようなこの対話に、なぜか希望を感じたのは、それまでに聞いた饒舌な対話に比べ、彼らがほとんど言葉を発しなかったからかもしれない。涙もなく、失くしたものの話もしない、撮られていることに最後まで慣れなかったあの奥さん、気仙沼のヒロインに見えてきて、余韻の中に存在感が強く残った。